文化祭記念講演
「三菱財閥の形成と長崎」
放送大学長崎学習センター所長 東條 正
長崎市が三菱重工長崎造船所の企業城下町であることは長崎の人々には周知の事実であろう。では、なぜ長崎と三菱の縁が生まれたのか。その縁は造船事業から始まったわけではなかった。
江戸時代、鎖国の中で、日本唯一の海外への窓として光り輝いていた長崎の街、ところが、長崎の繁栄の原因であった「鎖国」が崩壊する契機となる事件が発生した。米国ペリー艦隊の浦賀への来航(「黒船」来航)である。ペリー艦隊来航をきっかけに鎖国制度は崩壊し、海外貿易独占による長崎の繁栄は失われることとなった。
ところで、「黒船」とは「蒸気船」のことである。浦賀への米国のペリー艦隊の来航で、風もないのに動く黒船(蒸気船)や、さらに将軍への献上品としてペリーが持参した蒸気機関車の模型を見せられた日本人達はカルチャーショックを受けた。どうして蒸気船や蒸気機関車は動くのか。魔法でも使っているのか。やがて、解ってきたのは、蒸気船・蒸気機関車が動くのは魔法ではなく、蒸気機関を動力として動くらしいことと、そして、その蒸気機関を動かす燃料としては石炭が必須だということであった。
ペリー来航で日本人が認識した、欧米と日本の技術の大きな較差、それは「工業化」に起因するものであった。世界で初めての「工業化」はイギリスで発生した。英国では18世紀後半から綿織物業、製鉄業を中心にいわゆる「産業革命」が発生した。
ところが、英国の産業革命の進行には大きな問題があった。イギリスでは産業革命による諸工業の発展で、燃料の薪が足りなくなり、森林を切り尽くしてしまった。このため燃料の調達が諸工業発展の大きな課題となってきた。この問題への対応として、燃料に薪に替わって、イギリスの地下に豊富に埋まっている石炭を燃料として使おうという試みが行われたが、石炭の利用には二つの大きな問題があった。一番目の問題は、石炭採掘に伴う湧水問題であった。つまり、石炭を採掘するため、地面を深く掘っていくと、地下水が湧いてきて水没してしまうのが湧水問題である。石炭利用の、二番目の問題は、石炭の輸送問題であった。石炭は重量があって嵩張るため、採掘した石炭を使う場所までどうやって運ぶかが大問題であった。
第1の問題である湧水を排水する上下運動のポンプとして発明されたのが蒸気機関の最初であった。さらに、ワットによって改善されて回転運動ができるようになった蒸気機関は交通手段に応用され蒸気機関車が造られ、石炭の第2の問題点であった輸送問題も解決され、石炭に関する「排水」と「輸送」という二つの大問題が、蒸気機関で一気に解決すると同時に、蒸気機関車、蒸気船をも生み出し、「交通革命」が発生した。
英国では、「交通革命」の結果、19世紀前半には蒸気機関車を使った鉄道網が全国に張り巡らされ、それはヨーロッパ大陸から米国へ拡大していった。一方、米国のハドソン川でヒルトンによって実用的な運航を開始した蒸気船は、河川だけではなく、海上でも使われ始めたが、遠洋航海では海上で燃料の石炭や真水が補給できないため、沿線の各駅で真水と石炭を補給できる蒸気機関車による鉄道の発展に結果的には後れをとった。
米国のペリー艦隊は、浦賀来航時に幕府に石炭の貯蔵場所の設置を求めているが、これはペリー艦隊の来航の主な目的が蒸気船の太平洋横断のための石炭と水の補給地の確保にあったためである。この背景には、米国西海岸にまで西部開拓が到達し、太平洋国家となった米国が、石炭と水を太平洋上の中継点(日本近辺)で補給し、蒸気船を用いて1か月弱で中国に到達することを目指した戦略があった。実は、ペリー艦隊自体も石炭や水の補給のない太平洋を横断することができず、米国東海岸から、マディラ諸島やセントヘレナ島に寄港して石炭や水を補給しながら大西洋を横断し、アフリカの南端喜望峰を回ってインド洋に出て、シンガポール等を経て、香港、上海に到達し、浦賀に至っていた。
しかし、1860年代の復水器や複式ボイラー等の船舶用蒸気機関の改良により、19世紀後半以降、蒸気船も大洋を横断するような遠洋航海が可能となった。それ以前の「帆船時代」では、ヨーロッパから中国まで行くのに、半年以上を要し、ヨーロッパからアジアまで、往復するのに1年から1年半かかった。このため一般の旅行者がヨーロッパからアジアまで行くことは甚だ困難であった。それが蒸気船の運航によってヨーロッパからアジアまでの到達時間が急速に短縮された。つまり、蒸気船の発達によって、「世界の距離が縮んで」、他の大陸に「旅行」することが可能となった。
別言すれば、偶然にもわが国の明治維新の時期は、世界的な「蒸気船の時代」が出現した時期と重なっていた。つまり、明治時代以降、「飛行機の時代」が到来する第2次世界大戦後までの、近代において、蒸気船は、国を超えた移動においては、長距離・大量交通の中心となっていった。
わが国においても安政五カ国条約による1859年の開国と同時に英国のP&O社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.)の蒸気船が上海から長崎に来航、長崎はヨーロッパからの東回りの蒸気船の国際定期航路の寄港地となった。他方、慶応3年(1867)には米国の太平洋郵船会社(Pacific Mail Steam Ship Co.)が西回りのサンフランシスコ・香港間定期航路を開設、横浜や神戸と並んで長崎も寄港地となった。このように、当該期、世界を一周することになった蒸気船の国際定期航路において、長崎は横浜、神戸と並ぶ寄港地として再生した。しかも、長崎には横浜や神戸にない利点があった。それは、長崎港外に位置し、当該期アジアで最大の石炭供給地となっていった高島炭坑の存在であった。このためアジア各地に駐屯する欧米各国の軍艦も長崎港に頻繁に寄港した。このようにして長崎の街は賑わいを取り戻し再生することになった
この「蒸気船の時代」に、近代交通機関の中心となりつつあった蒸気船に着目して、蒸気船による海運会社を創立したのが、幕末から長崎で活動していた旧土佐藩士岩崎彌太郎であった。明治初期、蒸気船の定期航路は、国内航路も国外航路も、英国のP&O社や米国の太平洋郵船会社などの外国蒸気船会社が握っていた。明治政府にとって、定期的な大量輸送が可能な近代的交通手段の中心である汽船航路を、日本の手に取り戻すことが大きな課題であった。それを担ったのが、土佐(高知)藩出身で郵便汽船三菱会社を創立し、旧土佐藩から無償で払い下げられた蒸気船による海運業を始めた岩崎彌太郎であった。
明治政府が立てた交通インフラ政策は、蒸気機関車の鉄道を国内に隈なく敷設するには膨大な資金と年月がかかるので、当面は国内の長距離の輸送は横浜・神戸・長崎の3大港を蒸気船で結んでそれでまかなう。最大の都市で首都でもあった東京(新橋)と横浜港は鉄道で結び、関西では最大都市の京都・大阪と神戸港間を鉄道で結び、アジア(上海、香港、朝鮮、ロシアなど)への蒸気船航路の拠点は長崎港とする、というものであった。
三菱は、明治新政府の保護を受け、外国の蒸気船会社を日本の蒸気船航路から駆逐し、国内における独占的な蒸気船会社になると同時に、明治10(1878)年に発生した西南戦争における兵員・軍需物資の輸送において巨額の利益を獲得した。その後、「明治14年政変」と呼ばれる大隈重信と薩長閥との政争に巻き込まれて、薩長藩閥政府に敵視された三菱は、政府の保護を受けた共同運輸会社との死闘を繰り広げ、存亡の危機に陥るが、明治18(1883)年両社は和解して、合併し、日本郵船が設立された。
一方、三菱は当初の蒸気船による海運事業から多角化を開始し、明治14(1881)年、当時、蒸気機関の燃料として不可欠なアジア最大の石炭を産出する高島炭坑を買収して経営に着手、さらに明治17(1884)年官営だった長崎造船所の払い下げを受け、蒸気船の修理、建造をめざした。また、岩崎家名義で日本郵船の筆頭株主となると共に、明治10年代後半から日本にも幹線鉄道会社(日本鉄道会社、山陽鉄道会社、九州鉄道会社、筑豊興行鉄道会社など)が創設され始めると、岩崎家はいずれの幹線鉄道会社でも筆頭株主となり、日本の主要鉄道会社も支配した。
つまり、三菱は、わが国における、イギリスの産業革命の後期に発生した「交通革命」で出現した蒸気機関を用いた海(蒸気船)と陸(蒸気機関車による鉄道)の近代交通機関全体を支配することとなった。その後、三菱は石炭業(三菱鉱業)、造船業(三菱重工)、金融(三菱銀行)、商社(三菱商事)、保険(東京海上、明治生命)やその他の産業に多角化を進め、それぞれの産業で中核的存在となり、財閥化していった。